(予想)2014 ノーベル文学賞(GⅠ) [La literatura (文学)]
◎エレナ・ポニアトウスカ(メキシコ)
〇フアン・ゴイティソロ(スペイン)
△ホセ・マヌエル・カバジェロ・ボナルド(スペイン)
▲ニカノール・パーラ(チリ)
✕ハビエル・マリアス(スペイン)
✕エドゥアルド・ガレアーノ(ウルグアイ)
カタルーニャ関係の人が来るんじゃないかな~
〇フアン・ゴイティソロ(スペイン)
△ホセ・マヌエル・カバジェロ・ボナルド(スペイン)
▲ニカノール・パーラ(チリ)
✕ハビエル・マリアス(スペイン)
✕エドゥアルド・ガレアーノ(ウルグアイ)
カタルーニャ関係の人が来るんじゃないかな~
日記見っけ [La literatura (文学)]
『みすず』という小冊子に政治思想史の原武史さんの日記が連載されていることを知る
第1回は2013年6月号
第1回は2013年6月号
日記を読む22 [La literatura (文学)]
『板尾日記8』板尾創路、リトルモア
2012年1月1日~12月31日
年を経ても文体が変わらない
淡々とした文章の中に日常への愛着が伝わる
読んでて思ったことがあって、
それは、他人の禁煙話ほど耐え難いものはない!
2012年1月1日~12月31日
年を経ても文体が変わらない
淡々とした文章の中に日常への愛着が伝わる
読んでて思ったことがあって、
それは、他人の禁煙話ほど耐え難いものはない!
日記を読む21 [La literatura (文学)]
『日記のお手本』小学館文庫
所収の、荒木経惟『包茎亭日乗』←なんちゅータイトルや
1989年1月8日~1995年7月7日
ちょうどこの日記の時期に奥さんを亡くされている
毎年命日や結婚記念日に奥さんを思い出す記述があるが、
アリバイか否か、そんなこと他人に分かるはずもない
おもしろかったのは、以下のところ
1995年6月24日
エッグギャラリーでの裸小説展
(初日にスーザン・ソンタグ現われ、こーゆー写真きらい!
と5分で帰ってしまった)
ソンタグの『写真論』読まねば
所収の、荒木経惟『包茎亭日乗』←なんちゅータイトルや
1989年1月8日~1995年7月7日
ちょうどこの日記の時期に奥さんを亡くされている
毎年命日や結婚記念日に奥さんを思い出す記述があるが、
アリバイか否か、そんなこと他人に分かるはずもない
おもしろかったのは、以下のところ
1995年6月24日
エッグギャラリーでの裸小説展
(初日にスーザン・ソンタグ現われ、こーゆー写真きらい!
と5分で帰ってしまった)
ソンタグの『写真論』読まねば
美術館とその変遷 ウンベルト・エーコ [La literatura (文学)]
1991年、セゾン美術館で開催された「グッゲンハイム美術館名品展」の
カタログに掲載されたエーコの文章の全文
美術館とその変遷 ウンベルト・エーコ
The Museun and Its Vicissitudes by Umberto Eco
18世紀の画家ジョヴァンニ・パオロ=パンニーニが描くところの絵画ギャラリー、あの頭がくらくらしそうな光景を多くの人が覚えていると思う。広大なバロック風の部屋の高い壁に、ぎっしりと架けられたカンヴァス、しかも古代風の柱の間、あるいは格子天井の真下まで所狭しと飾られた絵画を。ところどころ彫像で区切られた、そうした空間の中に置かれた無数の絵画は、ほとんど柱頭やコーニスに押しつぶされんばかりである。壁面に長く、何段にも重ねて縦横に架けられた絵画は、まるで長い漫画のコマのようですらある。さらには床に積み重ねられたり、壁に立てかけられたりしている絵画も多い。悪夢としか思えないこうした過度の耽溺の向こう側に、緋の衣をまとった枢機卿、すなわち蒐集家の姿が見えるのだ。彼が自らもたらしたこの大混乱を、はたして誇りに思っているのか、あるいは混乱しているのか、判断は難しい。何故なら、そこにある絵画を一点一点作品としてゆっくりと鑑賞することは不可能であり、またこれらの蒐集品から感じられる印象は、ある種の騒々しいばかりの視覚的不協和音にすぎず、蒐集家の貪欲さのたまものに他ならないからである。
コッレジオ・ロマーノ(現存せず)にあったといわれるキルヒャー神父の博物館も、おおよそこのようなものであったに違いない。おそらくは「びっくり箱」さながらの驚くべき蒐集品の部屋、その最も熱狂的な例といえるものだったろう。考古学的な発見物、異国趣味の掘り出し物、聞いたこともない珍奇な品々、一角獣の角、防腐処理済みのフェニックス等々がごちゃまぜに集められており、これらの品々は「驚異」の世紀の特色とされる、頭がくらくらするような不安定と落ち着きのない不釣合の感覚を、この衒学的で情熱溢れたコレクションに与えていたと思われる。
パンニーニの絵画には芸術性こそないが、古代から現代に至るまで、すべての偉大な蒐集家に共通した側面、すなわち所有欲あるいは蒐集癖を、巧みな技術により迫真の筆使いで描写している。蒐集家は、所有せんがために隠し、かつ隠すために所有したのである。古代のこのようなコレクションは、現代の『ニューヨーク・タイムズ』紙の日曜版と同じことをしているともいえる。つまり、日曜版の情報量と内容はあまりにも膨大で、大仰に言えば、何百ページにもわたるため、一週間かけても読み切れないという現象がおきているということである。
王侯貴族のコレクションでは、あたかも資産や神仏の偶像を集めるような勢いで作品が収集された。量への盲目的崇拝が、嗜好、審美眼を凌駕していたのである。蒐集家は、喩えるに、「性の狩人」(いわゆるプレイボーイ)のようだった。彼らは深い心の結びつきなどは無視し、相手かまわず、ともかくも自分の意のままになる女性のリストに、ひとりでも多くの女性を加えること、それのみに喜びを見出すといった類の人種である。
貴族である蒐集家は、金にあかせて、またある時には盗んでまでも、当時誰もが見ることすらできなかった品々を独り占めにしたのだった。その後、市民階級の手による美術館が誕生して、一般人がこれら個人コレクションを鑑賞できるようになったにもかかわらず、美術館すらもまたもやフェティシズムの罪に陥ってしまうことになった。そして昔の王侯貴族さながら、ひたすら溜めこむことに打ち込んだのである。この意味で美術館は、訪れる人までをもこうした蒐集家病に感染させてしまうらしい。つまりそこを訪れる人々にも、自らが持つフェティシズム的、熱狂的な所有欲を━もちろん来館者にとってこれは視覚的で一過性の所有欲でしかないのだが━呼び起させるのである。美術館の中の全作品は、すべからく「見る」ことができるからには「鑑賞」されねばならぬものとなり、その結果、ゆったりと「楽しんで」鑑賞できる作品は皆無となってしまうことが往々にしてある。来館者は、まるで熱狂したレミング(※1)さながら、互いに足を踏まんばかりにひたすら定められた順路を入り口から出口へと歩み続けるのである。そして二重の犠牲的儀式を行なうことになる。すなわち芸術的愛好家である自分達に対する自殺的行為と、彼らが愛しているはずの芸術作品に対する殺害行為のふたつである。
真の芸術愛好家は、こうした行動の愚かしさをすべて承知しているので、美術館を訪れても、一時に一点ないし二点の作品を鑑賞し、発見するにとどめておくのである。いずれにせよ、それらの作品が当然要求する情熱や注意力をもって作品を鑑賞するならば、他の作品を同様に見るための気力は残されていないというのが実情であろう。だからこそすぐれた美術館のほとんどが、喫茶室や庭園やショップなどを設けているのである。これらは、未だに美術館すなわち墓場と考えている人々の多くが思うように、消費者社会における妥協の産物ではなく、休息や小休止のための場なのである。時間をかけて見て回る人々に適切なペース、リズムを与え、また美術館が時として誘発する不健全なのぞき趣味をやわらげてくれる場ともなり得るのである。
現代の美術館論によれば、美術館所蔵の宝を「隠す」というよりは「見せる」ための新しい方法が確立されている。つまり、ひとつのテーマに基づいた特別展や、取捨選択を可能にする変化に富んだ展示内容などである。優れた美術館では、何よりもゆっくりと作品を見て回ることができ、また見たくない作品を取捨選択する時間も与えられるものである。一例をあげると、グッゲンハイム美術館では館内の螺旋構造により、必然的に昇り勾配を上がってゆかなければならないことから、各人に最適のスペースが生まれ、ひたすら先を急ぐといったことがないのである。
しかしたとえ今日、多くの美術館がかつての絵画ギャラリーや彫刻コレクションの抱えていた諸問題を解決しえたとしても、およそコレクションと名の付くすべてに本質的に内在する限界の問題は、未解決のままである。美術作品は特権的な場所に収蔵されてしまうのが普通であり、次の二種類の人々しか簡単に近づけない。原則として関心が薄い地元の人および旅行者である。旅行者は時間がないために、せいぜい二、三時間、まるで空襲のようにわっと侵入してくる人達である。この限界というのは、従って展示されている作品のユニークさにかかっている。
こうしたことから、何年か前に高名な建築家のコンラッド・ヴァクスマンがひとつの提案をした。巡回美術館、巨大な移動コンテナ、一種のサーカスのテントである。テントの壁に最新かつ最高のプロジェクターを使って、実物大の美術作品を映し出そうというのである。こうすれば、地方都市に住む人々にも、一週間もあればルーヴル美術館やエルミタージュ美術館の傑作の数々を楽しんでもらえるのである。もちろんこの場合の作品は本物ではない。しかし何もないよりはずっと良いではないか。事実、フェラーラにある形而上絵画美術館は、スライドのみの収蔵ながら成功している。このように歴史的そして教育的配慮に基づく展示内容が上手に企画され、かつ優れた技術的手段が使われるならば、そこを訪れる人々は、オリジナルに基づいた一定水準の複製作品を充分理解し、楽しみ得るのである。何世代にもわたり音楽愛好家達は、今日では認めがたいレヴェルの録音や素人による演奏を通して、各時代の傑作を見出し、楽しんできたではないか(しかも今日スカラ座やカーネギー・ホールに集まる聴衆、またはコンパクトディスクを買って聴けるような人々と比較しても、それら昔の愛好家達の、バッハ、ベートーヴェン、ヴェルディに対する理解力が劣っていたとは考えられない)。最近では、輸送の便が改良され、梱包の技術も進歩したおかげで、さらに新しい現象も起きている。すなわち美術館そのものが、オリジナル作品とともに移動するのである。今後こうした展開は一層盛んとなり、美術教育のあらゆる分野において大きな変化をもたらすことだろう。
しかしながら、私は安易な楽観主義を唱え、こうした新しい試みにも問題点のあることを否定するものではない。例えば観光がますます盛んになることから、芸術都市といわれる街に群衆が殺到することも問題のひとつである。巡回展を増加したとしても、こうした好ましくない殺到を緩和するどころか、かえって拍車をかけかねないのである。
しかしこの問題にはもうひとつの側面があり、それは現代が抱えている深刻な矛盾のひとつともいえる。批評家、歴史家、教育家、啓蒙政治家のすべては口を揃えて、レモンの花咲く国々へと芸術の旅に出かけ、スタンダール・シンドロームを増長させるような少数の幸運な金持ち紳士淑女にのみ、芸術作品を堪能させてはいけない、と言い続けてきた。とはいえ、万人のための芸術という民主的な夢の実現が可能になってみると、万人というものはあまりにも多すぎるし、群衆は芸術の都、そしてそこに存在する数々の作品を、危機に陥れる危険な存在となり得ることに気付いたのである。
この矛盾の解決策は容易には見つからないだろう。だが、移動美術館や特別展の開催により、社会的階層によってではなく、熱意の度合いによって訪れる人々を選別することが、ある程度は可能であることを忘れてはならない。また願わくは、これら特別展などがすでに観光の名所となっている都市ではなく、辺鄙な地方で、未だ芸術作品に接する機会も少なく、新鮮な感動を期待できるような土地で、数多く開催されたらと思う。そうなってこそ、芸術は美術館から外へと足を踏みだすことにより、美術館自身も自らを解き放つこととなろう。
※1
タビネズミ、時に大群で移動する。またその繁殖が極に達した場合、海に向かって大移動を起こし、
多数が海中で溺死することでも有名、俗に「レミングの集団自殺』という。
(翻訳:下坂優子)
カタログに掲載されたエーコの文章の全文
美術館とその変遷 ウンベルト・エーコ
The Museun and Its Vicissitudes by Umberto Eco
18世紀の画家ジョヴァンニ・パオロ=パンニーニが描くところの絵画ギャラリー、あの頭がくらくらしそうな光景を多くの人が覚えていると思う。広大なバロック風の部屋の高い壁に、ぎっしりと架けられたカンヴァス、しかも古代風の柱の間、あるいは格子天井の真下まで所狭しと飾られた絵画を。ところどころ彫像で区切られた、そうした空間の中に置かれた無数の絵画は、ほとんど柱頭やコーニスに押しつぶされんばかりである。壁面に長く、何段にも重ねて縦横に架けられた絵画は、まるで長い漫画のコマのようですらある。さらには床に積み重ねられたり、壁に立てかけられたりしている絵画も多い。悪夢としか思えないこうした過度の耽溺の向こう側に、緋の衣をまとった枢機卿、すなわち蒐集家の姿が見えるのだ。彼が自らもたらしたこの大混乱を、はたして誇りに思っているのか、あるいは混乱しているのか、判断は難しい。何故なら、そこにある絵画を一点一点作品としてゆっくりと鑑賞することは不可能であり、またこれらの蒐集品から感じられる印象は、ある種の騒々しいばかりの視覚的不協和音にすぎず、蒐集家の貪欲さのたまものに他ならないからである。
コッレジオ・ロマーノ(現存せず)にあったといわれるキルヒャー神父の博物館も、おおよそこのようなものであったに違いない。おそらくは「びっくり箱」さながらの驚くべき蒐集品の部屋、その最も熱狂的な例といえるものだったろう。考古学的な発見物、異国趣味の掘り出し物、聞いたこともない珍奇な品々、一角獣の角、防腐処理済みのフェニックス等々がごちゃまぜに集められており、これらの品々は「驚異」の世紀の特色とされる、頭がくらくらするような不安定と落ち着きのない不釣合の感覚を、この衒学的で情熱溢れたコレクションに与えていたと思われる。
パンニーニの絵画には芸術性こそないが、古代から現代に至るまで、すべての偉大な蒐集家に共通した側面、すなわち所有欲あるいは蒐集癖を、巧みな技術により迫真の筆使いで描写している。蒐集家は、所有せんがために隠し、かつ隠すために所有したのである。古代のこのようなコレクションは、現代の『ニューヨーク・タイムズ』紙の日曜版と同じことをしているともいえる。つまり、日曜版の情報量と内容はあまりにも膨大で、大仰に言えば、何百ページにもわたるため、一週間かけても読み切れないという現象がおきているということである。
王侯貴族のコレクションでは、あたかも資産や神仏の偶像を集めるような勢いで作品が収集された。量への盲目的崇拝が、嗜好、審美眼を凌駕していたのである。蒐集家は、喩えるに、「性の狩人」(いわゆるプレイボーイ)のようだった。彼らは深い心の結びつきなどは無視し、相手かまわず、ともかくも自分の意のままになる女性のリストに、ひとりでも多くの女性を加えること、それのみに喜びを見出すといった類の人種である。
貴族である蒐集家は、金にあかせて、またある時には盗んでまでも、当時誰もが見ることすらできなかった品々を独り占めにしたのだった。その後、市民階級の手による美術館が誕生して、一般人がこれら個人コレクションを鑑賞できるようになったにもかかわらず、美術館すらもまたもやフェティシズムの罪に陥ってしまうことになった。そして昔の王侯貴族さながら、ひたすら溜めこむことに打ち込んだのである。この意味で美術館は、訪れる人までをもこうした蒐集家病に感染させてしまうらしい。つまりそこを訪れる人々にも、自らが持つフェティシズム的、熱狂的な所有欲を━もちろん来館者にとってこれは視覚的で一過性の所有欲でしかないのだが━呼び起させるのである。美術館の中の全作品は、すべからく「見る」ことができるからには「鑑賞」されねばならぬものとなり、その結果、ゆったりと「楽しんで」鑑賞できる作品は皆無となってしまうことが往々にしてある。来館者は、まるで熱狂したレミング(※1)さながら、互いに足を踏まんばかりにひたすら定められた順路を入り口から出口へと歩み続けるのである。そして二重の犠牲的儀式を行なうことになる。すなわち芸術的愛好家である自分達に対する自殺的行為と、彼らが愛しているはずの芸術作品に対する殺害行為のふたつである。
真の芸術愛好家は、こうした行動の愚かしさをすべて承知しているので、美術館を訪れても、一時に一点ないし二点の作品を鑑賞し、発見するにとどめておくのである。いずれにせよ、それらの作品が当然要求する情熱や注意力をもって作品を鑑賞するならば、他の作品を同様に見るための気力は残されていないというのが実情であろう。だからこそすぐれた美術館のほとんどが、喫茶室や庭園やショップなどを設けているのである。これらは、未だに美術館すなわち墓場と考えている人々の多くが思うように、消費者社会における妥協の産物ではなく、休息や小休止のための場なのである。時間をかけて見て回る人々に適切なペース、リズムを与え、また美術館が時として誘発する不健全なのぞき趣味をやわらげてくれる場ともなり得るのである。
現代の美術館論によれば、美術館所蔵の宝を「隠す」というよりは「見せる」ための新しい方法が確立されている。つまり、ひとつのテーマに基づいた特別展や、取捨選択を可能にする変化に富んだ展示内容などである。優れた美術館では、何よりもゆっくりと作品を見て回ることができ、また見たくない作品を取捨選択する時間も与えられるものである。一例をあげると、グッゲンハイム美術館では館内の螺旋構造により、必然的に昇り勾配を上がってゆかなければならないことから、各人に最適のスペースが生まれ、ひたすら先を急ぐといったことがないのである。
しかしたとえ今日、多くの美術館がかつての絵画ギャラリーや彫刻コレクションの抱えていた諸問題を解決しえたとしても、およそコレクションと名の付くすべてに本質的に内在する限界の問題は、未解決のままである。美術作品は特権的な場所に収蔵されてしまうのが普通であり、次の二種類の人々しか簡単に近づけない。原則として関心が薄い地元の人および旅行者である。旅行者は時間がないために、せいぜい二、三時間、まるで空襲のようにわっと侵入してくる人達である。この限界というのは、従って展示されている作品のユニークさにかかっている。
こうしたことから、何年か前に高名な建築家のコンラッド・ヴァクスマンがひとつの提案をした。巡回美術館、巨大な移動コンテナ、一種のサーカスのテントである。テントの壁に最新かつ最高のプロジェクターを使って、実物大の美術作品を映し出そうというのである。こうすれば、地方都市に住む人々にも、一週間もあればルーヴル美術館やエルミタージュ美術館の傑作の数々を楽しんでもらえるのである。もちろんこの場合の作品は本物ではない。しかし何もないよりはずっと良いではないか。事実、フェラーラにある形而上絵画美術館は、スライドのみの収蔵ながら成功している。このように歴史的そして教育的配慮に基づく展示内容が上手に企画され、かつ優れた技術的手段が使われるならば、そこを訪れる人々は、オリジナルに基づいた一定水準の複製作品を充分理解し、楽しみ得るのである。何世代にもわたり音楽愛好家達は、今日では認めがたいレヴェルの録音や素人による演奏を通して、各時代の傑作を見出し、楽しんできたではないか(しかも今日スカラ座やカーネギー・ホールに集まる聴衆、またはコンパクトディスクを買って聴けるような人々と比較しても、それら昔の愛好家達の、バッハ、ベートーヴェン、ヴェルディに対する理解力が劣っていたとは考えられない)。最近では、輸送の便が改良され、梱包の技術も進歩したおかげで、さらに新しい現象も起きている。すなわち美術館そのものが、オリジナル作品とともに移動するのである。今後こうした展開は一層盛んとなり、美術教育のあらゆる分野において大きな変化をもたらすことだろう。
しかしながら、私は安易な楽観主義を唱え、こうした新しい試みにも問題点のあることを否定するものではない。例えば観光がますます盛んになることから、芸術都市といわれる街に群衆が殺到することも問題のひとつである。巡回展を増加したとしても、こうした好ましくない殺到を緩和するどころか、かえって拍車をかけかねないのである。
しかしこの問題にはもうひとつの側面があり、それは現代が抱えている深刻な矛盾のひとつともいえる。批評家、歴史家、教育家、啓蒙政治家のすべては口を揃えて、レモンの花咲く国々へと芸術の旅に出かけ、スタンダール・シンドロームを増長させるような少数の幸運な金持ち紳士淑女にのみ、芸術作品を堪能させてはいけない、と言い続けてきた。とはいえ、万人のための芸術という民主的な夢の実現が可能になってみると、万人というものはあまりにも多すぎるし、群衆は芸術の都、そしてそこに存在する数々の作品を、危機に陥れる危険な存在となり得ることに気付いたのである。
この矛盾の解決策は容易には見つからないだろう。だが、移動美術館や特別展の開催により、社会的階層によってではなく、熱意の度合いによって訪れる人々を選別することが、ある程度は可能であることを忘れてはならない。また願わくは、これら特別展などがすでに観光の名所となっている都市ではなく、辺鄙な地方で、未だ芸術作品に接する機会も少なく、新鮮な感動を期待できるような土地で、数多く開催されたらと思う。そうなってこそ、芸術は美術館から外へと足を踏みだすことにより、美術館自身も自らを解き放つこととなろう。
※1
タビネズミ、時に大群で移動する。またその繁殖が極に達した場合、海に向かって大移動を起こし、
多数が海中で溺死することでも有名、俗に「レミングの集団自殺』という。
(翻訳:下坂優子)
白水社「新しい世界の文学」シリーズ [La literatura (文学)]
http://homepage1.nifty.com/ta/0ha/haku/sekai.htm
(memo)手に入れたもの
『悲しき愛』ベルナール・パンゴー
『ジョヴァンニの部屋』ジェイムズ・ボールドウィン
『新しい人間たち』C・P・スノウ
『ライ麦畑でつかまえて』J・D・サリンジャー
『神のあわれみ』ジャン・コー
『走れウサギ』ジョン・アプダイク
『愛せないのに』エルヴェ・バザン
『オートバイ』A・ピエール・ド・マンディアルグ
『赤毛の女』アルフレート・アンデルシュ
『黒いいたずら』イーヴリン・ウォー
『逃亡者』ピエール・ガスカール
『モリソンにバラを』クリスチアヌ・ロシュホール
『死を忘れるな』ミュリエル・スパーク
81冊中まだ13冊
追加
『アンデスマ氏の午後』マルグリット・デュラス
『ゲルニカの子供たち』ヘルマン・ケスティン
(memo)手に入れたもの
『悲しき愛』ベルナール・パンゴー
『ジョヴァンニの部屋』ジェイムズ・ボールドウィン
『新しい人間たち』C・P・スノウ
『ライ麦畑でつかまえて』J・D・サリンジャー
『神のあわれみ』ジャン・コー
『走れウサギ』ジョン・アプダイク
『愛せないのに』エルヴェ・バザン
『オートバイ』A・ピエール・ド・マンディアルグ
『赤毛の女』アルフレート・アンデルシュ
『黒いいたずら』イーヴリン・ウォー
『逃亡者』ピエール・ガスカール
『モリソンにバラを』クリスチアヌ・ロシュホール
『死を忘れるな』ミュリエル・スパーク
81冊中まだ13冊
追加
『アンデスマ氏の午後』マルグリット・デュラス
『ゲルニカの子供たち』ヘルマン・ケスティン
(予想)ノーベル文学賞(GⅠ) [La literatura (文学)]
◎フアン・ゴイティソーロ(スペイン) 4年連続本命
〇ドン・デリーロ(米国)
△イスマイル・カダレ(アルバニア)
▲アナ・マリア・マトゥーテ(スペイン)
✕ミラン・クンデラ(チェコ/フランス)
〇ドン・デリーロ(米国)
△イスマイル・カダレ(アルバニア)
▲アナ・マリア・マトゥーテ(スペイン)
✕ミラン・クンデラ(チェコ/フランス)
日記を読む20 [La literatura (文学)]
『一私小説書きの日乗』 西村賢太、文藝春秋
2011年3月7日~2012年5月27日
これほど現在に近い日記は今まで読んでいない
わりと近くに住んでいるという理由だけではないが、妙な親近感が湧く
原稿の締め切りが近くなるとこちらも心配してしまうような
この妙な親近感を味わえるのが日記の面白さ
それを堪能できた
2011年3月7日~2012年5月27日
これほど現在に近い日記は今まで読んでいない
わりと近くに住んでいるという理由だけではないが、妙な親近感が湧く
原稿の締め切りが近くなるとこちらも心配してしまうような
この妙な親近感を味わえるのが日記の面白さ
それを堪能できた